判断に迷ったときは直感を信じ、決断のタイミングを逃さない
迷い続けるのは、答えがないということ。いざというときは、直感で決める。

いちばんだめなのは、判断が遅れることだ。

なにかを決めなければならないとき、悩んでも答えが出ない場合がある。

そんな時、どうのようにすればよいのか。

それは,“直感”で決めることだ。問題なのは、悩むことによって、その決断が遅れることだ。その結果、本当にどうしようもない状態に追い込まれることがいちばん怖い。

そういうことは、だれしも経験があるのではないだろうか。

とりわけいまの日本人は、しっかりとした判断がなかなかできなくなっている。

なぜなら、どこかに100パーセントうまくいく方法があるはずだと想定し、物事に取り組んでしまうからだ。まじめすぎるのだ。そして、事件や事故が起きてから、「ああすればよかった」「なぜこうしなかったのか」という結果論ばかり、しきりに議論される。

ではまた、なぜそんな方法を探すのか。

それは、いまの日本は少しでもおかしいと思うと、どのような長所があっても、まず欠点が強調される。そして、それがきつい。結果として、責任がと割ることがないようにあれこれ考えているうち、非現実的な結論が出てきてしまうのである。

では、どうするか。

私は、批判されることを前提に、まず判断し行動することだと思う。理由は直感でもいい。行動すれば、問題点は具体的に浮かび上がる。つまり対策を打つことができる。

まったく迷わずに安易に決めるのはだめだが、100パーセントうまくいくことはないと思って、問題へ具体的な対応をすれば、案外すんなり進んでしまうことも多い。

いまの日本の批判の多さは病的でさえある。つまり、あまり意味のあるものではない。

それが証拠に、批判する人々が実際にやっていることを見れば、いかに自分のことを棚に上げているかが見えてくる。だが、批判されないようにとビクビクしているとそんなことも見えない。やはりちぢこまったことしかできない。

やるべきと思ったことは、即やろう。それがいちばんいいことだと思う。(92-93p)




子どものために「叱る」のは大切、「怒る」のは禁物

叱るべきことはあらかじめ伝えておこう。そうすれば、叱られるとき納得をする。それを決めずに、親が感情的になってはいけない。

「叱る」というのはどういうことか。

それは、「絶対やってはいけない」ことを強く教えることだ。

それに対して、「怒る」というのは、子どもがやったことに対して、親が不機嫌になって厳しい態度とをとることだ。

つまり、怒るということに教育的意味はない。

叱られるときは、あらかじめ何をやればきつく言われるかということがわかっているので、子どもは反省する。

だが、怒られるというのは、わけがわからない。不満が鬱積するか、トラウマになるか、いずれにせよ、いいことはない。

だから、普段から、何をやってはいけないかということを、子どもにわかるように伝えておく必要がある。

世の中のルールを教えながら、取り返しのつかない行動だけは言っておく必要がある。

ただ、項目が多くなると、親も子どもも覚えておくのがたいへんだ。

1.相手を侮辱するような言葉は言わない

2.人のからだを傷つけてはいけない

3.もしやってしまったらなにより謝り、言い逃れをしてはいけない。

そして、親自身も、怒るにせよ、叱るにせよ、子どもの心に響くものであったかどうか、いつも反省する心の余裕は持っていて欲しい。(105-107p)



私は、未来の幸福のための学力というより、いま幸福を感じるための学力作りという視点で努力してきた。

だからこそ、睡眠時間を削ってまで学習することに批判的だった。(222p あとがきより)

たくさん為になった。
親も、日々学習し、日々努力しないと…
いい年してても、まだまだ青二